ベンタイン市場でつかまえて
- ネットウィンクス広報

- 4月28日
- 読了時間: 8分
更新日:4月30日
朝になると、ベンタイン市場へ向かった。
ホテルから、歩いて10~15分程度の距離にある、ホーチミン一の知名度を誇る巨大マーケットだ。
どのガイドブックにも載っているような有名な市場であるから、行き方を迷うことはまずないだろう。
食品、雑貨、衣類。なんでもある。ドン・キホーテをイメージするとわかりやすいだろうか。土産物を選ぶ人も少なくないだろう。
雑然としているようで、飲食や衣類など、エリアが分けられていた。混沌と秩序の同居が、活気あふれる市場を創り出しているのかもしれない。

エネルギッシュな空気に魅せられる中、注意が一つ。
ベンタイン市場を訪れるのは、ほとんどが観光客だということ。地元民はあまり訪れない。
観光客を相手にするこの手の市場は、たいてい「ぼったくり」が横行している。
無論、ベンタイン市場も例外ではない。
適正価格以上で売り付けられることがほとんどであるから、決して言い値で買ってはならず、値切り交渉が必須である。
ほどなく、我々は”ぼったくり”市場の現実を体験することとなる。



午前9時。私たちは、ホテルからベンタイン市場まで歩いた。
途中、メトロの駅を見かけたが、どこからどこへ行くのか、時刻通りに走っているのか、調べることはなかった。
高級ホテルが立ち並ぶ通りで声をかけられた。日本語だった。
振り返ると、ワイシャツにスラックスを穿いた日焼けした男性の姿が。
「日本人?」
私たちはほぼ同時に頷く。
「やっぱり。ホテルで見ましたヨ。観光デスカ? お仕事デスカ?」
「半々ですね」私は曖昧に答えた。観光客と見られた方が有利か、ビジネスマンと見られた方が有利か、判断に迷っていたのだ。
「どこ行きマスカ?」
「ベンタイン市場。朝食にね」
「Oh ちょうど私も行くところデス。ネクタイを買いに」
「ネクタイ?」
「そう、ネクタイ。ベンタイン市場は何でも売ってる」陽気なベトナム人は空の手で首元を締めるしぐさをした。
「これから買うの?」
「そう、明日、日本語の試験があるから。私の日本語、まだまだ。日本語できない、お給料上がらない。日本語もっとできる、お給料あがる」
どうやら、彼はホテルで働いているようだ。私は、一度も見かけた記憶がなかったが。
「ベトナムコーヒーは好きデスカ?」
「ちゃんと飲んだことないかも」
「ジャコウネコ、知ってる? ジャコウネコのうんちのコーヒー。うんちだけど、うんちじゃない。とても美味しい」
「ああ、知ってる。有名なやつやね」
「そう、とても高い。でも、ベンタイン市場、安い。高島屋はとても高い。ゼロが一つ違う」
彼の表現に、私たちは笑った。
「そりゃあ、高島屋と比べたらね」
「ジャスミンティーもね。ベンタイン市場、安い。高島屋、高い」
「ジャスミンも有名なんや?」
「そう。若い人たち、通りで冷たいジャスミンティー飲む。みんな飲む。涼しい、おいしい。だから、ベトナムの人は痩せてる」
確かに、昼夜問わず、通りに出したプラスチックの椅子でアイスティーを飲む若者たちを多く見かけた。地元民というより観光客だと思っていたが。
「ジャスミンティーもね。ベンタイン市場、安い。高島屋、高い」
よほどその表現が気に入っているのだろう。
「ジャコウネココーヒーとジャスミンティー、いい店知ってる。連れていってあげます」
一瞬、不穏な風が吹いた。
が、すぐに考えないようにした。陽気でエネルギッシュな彼に、呑まれていたのかもしれない。
「南口は高い。北口の方が安い。時計台があるのが南口。そっちじゃない。案内するヨ」

陽気なベトナム人に連れられて、私たちはベンタイン市場に入った。
市場の入り口には、制服を着たガードマンが一人、二人。たばこを燻らせているところを見ると、仕事熱心ではなさそうだ。
案内された店は、アオザイが並んだ店の先にあった。
「これがジャコウネココーヒー。こっちがジャスミン」彼は袋詰めされた商品を手渡してきた。
「ちょっと待って、なんぼ?」
「100g 120,000VND とっても安い。隣り、もっと高い。高島屋、もっともっと高い」
「それはもうええて。10万じゃあかん?」
「ダメ。ここは交渉できない店」
「そんなわけあるかいな」
彼はベトナム語で何か言った。
店から出てきた二人のおばちゃんが、プラスチックの椅子を並べ、私たちを座らせた。
「マンゴーは好き? ナッツは? とてもおいしい。安い」
「試食、試食」おばちゃんが、ハサミで切ったドライマンゴーを手渡してくる。
「ちょっと待ちいや。どれがなんぼやねん」
「二人は日本語わからない。ベトナム語だけ。マンゴーは? マンゴー食べた?」彼はすぐに、T氏の方へ話題を変えた。
気が付くと、私たちの前に一人ずつ、代わる代わる接客されていた。
攻防はすでに始まっていたようだ。
「コーヒー600,000VND ジャスミン600,000VND」私の前に戻ってきた男性が言った。
「ジャスミンはいらんよ、最初から」
600,000ドン、日本円で約3600円。1万円しか両替していない私は、そもそも1,200,000ドンも持ち合わせていなかった。
「小さい、400,000VNDもある」
「ちょっと待って。考えてる」
私は財布の中を確認した。
まだ、初日の朝だ。一体ここで、いくらまで使える?
私の思考をよそに、男性は財布の中を覗き込んできた。
「これで、払う。おつり、返す」
男性は私の財布に指を入れ、500,000VNDをさした。
血管の切れる音が、聞こえた気がした。
「ありえへんな」私は財布をしまった。「ちょっとなら買うてもええかと思い始めてたところやけどな。財布覗いてくんのはあかんやろ。もう買えへん」
私は舌打ちするのをこらえた。
が、陽気なベトナム人は気にする素振りを微塵もみせず、めげずに買わせようとコーヒーをすすめてきた。私にとっては、もうそれは、猫の糞でしかなくなっていた。
「もう、行きましょうや」しびれを切らした私は、社長とT氏へ声をかけた。
見ると、二人はけばけばしい色のトートバッグを手にしていた。
「え、買ったん?」
T氏の顔は暗い。
「そう、買ってないの、あなただけ」後ろから、男性が言った。
「そうやな。高島屋で買うわ」
男性が何か言った。私は無視した。
歩き出すと、男性が言った。「こっち、こっち」
「おっちゃん、もうええて。あとは勝手にやるから」
「出口まで送るだけヨ」
「もうええて、ほんまに。ここで。ありがとうね。バイバイ」
ようやく、彼と別れることができた。
無性にたばこが吸いたい気分だった。
「一文無しになりました」T氏が不意に言った。
「え?」
「あれよあれよという間に、財布に手入れられて。残金ちょうど全部とられて……」
「予備の日本円は?」
「ホテルの金庫に1000円くらいなら」
「そら、あかんな。返してもらお」
私たちは再び、あの忌々しい店に戻った。
「おばちゃん、悪いんやけど、さっきの返してくれへんか? 全部とは言わん。半分でええから。back , back , please 」私はT氏の袋からコーヒーとジャスミンの袋を出し、日本語で言った。「金なくなってもうてん。頼むわ。返品さして」
横で、T氏が空っぽの財布をひっくり返す。
嗚呼。
おばちゃんはすぐに理解したようで、ポケットからくしゃくしゃの紙幣を取り出し、T氏に返してくれた。
どうやら、心からの悪意があるわけではないようだ。
「ごめんね、ありがとう」
私たちは礼を言い、市場を後にした。

あれは、ぼったくりだったのだろうかとふと思う。
思い返してみれば、不当な値段ではなかったのかもしれない。想定をはるかに超える量を売りつけられたのは確かだが。
おばちゃんたちは、返品にもごねることなく対応してくれた。きっと、悪意がなかったことも確かだ。
あの日焼けしたベトナム人男性は、私たちと別れたあと、出口から市場を出ていった。ネクタイを買いに来たはずであるのに。
彼は一体、どこへ行ったのだろう?
その後、宿泊したホテルで、彼の姿を見かけることはなかった。
もしかすると、私たちのような観光客を市場へ案内するのが、彼の仕事だったのかもしれない。
彼ら、彼女らは、ただ商売をしていたにすぎない。それが仕事なのだ。
ろくすっぽ下調べもせず、交渉を怠った私たちにも、いくばくかの落ち度はあった。
日本円にすると、それほどの額じゃないから、といった驕りが招いた事態だったのかもしれない。
怒りさえしたが、恨んではいない。いまとなっては――その日のうちに、数時間後には――「おもろかった出来事」だ。
これもこれで、貴重な経験だったのだと思う。
楽しいことが大半を占める海外渡航だが、たった一つのトラブルで、思い出は反対側へ書き換えられる。マイナスの思い出が強くなれば強くなるほど、渡航そのものがマイナスのものへと変換されてしまう。しいては、その国、その国の人々へと矛先が移ることもある。
そんなこと、誰も望みはしないだろう。
楽しい思い出を刻むこと。自分自身の身を守るため、最低限の準備と行動に責任を持つこと。それは、訪問者にとっての最低限の義務なのかもしれない。
このあと、歯が4本抜けたバイクタクシーの運転手に声をかけられ、エロマッサージツアーを組まれそうになったが、笑って追い払った。

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